手術

治療の経緯を発信

術後3週間

術後1日

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術後2日

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術後2週間ちょっと

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手術は無事に終わって、滑膜と言われる組織を切除しました。

手術の動画を見せてもらったら半月板には目立った損傷はなくて綺麗でした。

次の日には歩けたけど、痛みがあったので右足は引きずりながら。

現在は膝が伸ばしきれないので少し曲げながら歩いています。腫れは引いて「術後2週間ちょっと」の画像と変わらず。

ただ、頻繁に痛みが出ていて治ったのか心配です。

 

悔しさだけを力にするといつか尽きる

私は、高校生での経験を通してきて悔しさから得るものに重要性を感じた。

大きく負けたときの悔しさがモチベーション(バネ)につながるけれど、どうしてもそれだけではいつか尽きてしまう。

例えば、悔しさからくるモチベーションを山にしたら、常に山を削って物事をしなくてはならない。いつかは無くなる。それが燃え尽き症候群に繋がりかねない。

やはり、純粋な好きという気持ちがなければ物事は続かない。

それが私にはあったからこそ何度も試合で悔しい思いをしても這い上がってきた。

20ちょっとの人間が言っているけれど、これまで生きている中でこれは確かだと言える。

これから新しいことをする人、何かに悩んでいる人、様々な人に知ってほしい。

楽しくても怪我だったり出来ない条件が揃うと本当に人生つまらない。

あなたがやっていることは本当に楽しいと言えますか。意思は何ですか。

手術します⑦

膝が痛いので上半身のトレーニングをしていたら右肩が痛くなった。

引退後、右肩を病院で診てもらったら右足から来ているからまず根本の膝を治さないといけないと言われた。詰みました。

何ヶ月も治らない膝を治すことなんてできない。

生きがいの一つである筋トレができなくなってしまった。

 

就職も決定して落ち着いたところで膝の治療をしたい思いが出てきて、色んな人から病院を紹介してもらっているうちに、この膝は手術じゃなきゃ治らないと自分で思った。

長期間痛めると感覚的に分かってくる。

マッサージや注射で治るならすでに治ってるはずだし。

地元の有名な病院で診てもらった所、自分の症状はなんとも言えなくて、レントゲンやMRIを通して誰もが「これだ」と断言できる状態ではない。症状が分からないとの事でした。

内視鏡と言われる手術で状態を確認してから治療に移る計画になり今に至っています。

 

もしかしたら分からないまま終わるもしれない。大学生活の8割以上を自分の体を治す為に費やしてこんな状況に置かれたら生きている気がしなくてたまらない。

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①から⑦まで見てくれている方、ありがとうございます。

自分はこんな状況に置かれています。

精神的にも物凄いストレスを感じていて、本来の自分が居なくなっていっています。

これはまだ自覚があるからいいけれど、手術を終えたあと最悪のパターンを創造すると、どうやって生きる意味を見出していけばいいのか分かりません。

肘の手術はやる事が明確になっていて比較的メンタルを戻せましたが、今回はそんな程度ではありません。なにも残せず、ただただお金だけを費やしていって大学を終えるのです。

今まで蓄積されたものは何になったのか自分には分かりません。

今はとにかく同情してほしいです。

それがあれば何とかやっていけそうです。

励ましの言葉は今の自分に何も響いてきません。励まされるだけ無駄です。

膝が良くなったとしても失われた大学生活は2度と戻ってきません。

その悔しさ、辛さ、無力感、色々詰まっていて楽しくないです。

自殺者の気持ちがよく分かりました。

誰かに迷惑をかけるのなんてどうでも良くて、早く辛さから解放されたい気持ちが。

手術します⑥

大学進学

 

大学まで続けていると高校以上にレベルが高い。

大学は自分で考えて行動することが多いから高校のときのように言われた事だけやるほど簡単ではない。

なかなか闘志が燃えなかったけど仲間がどんどん成長しておいていかれる危機感から再び燃えた。

7月には念願の60mを超えて62mを投げられたし、そのあとも60付近を彷徨って、シーズン最後の競技会ではファールだけど65mまで飛ばすことができた。

それが1ヶ月前で記録を残せていたら18歳以下の日本選手権である日本ジュニアに出場できた悔しさがあって、その後の冬季練習のモチベーションにつながった。

 

2年生

大学は標準記録を突破しないと大きい大会に出れない。突破しても部内で3人までなのでそれも超えないといけない。

4月

シーズン初戦から62m、63mとベストも更新してきたところで肘に痛みを感じた。

肘の痛みは今まで経験してきだけど今回の痛みはおかしくて病院に行きたくなった。でも1週間後に最後の選考が残っていたので無理やり出場した。力が全く入らなく50m台という結果で先輩に最後の1人を取られた。

 

 

病院で診てもらった所、肘の靭帯を切っていた。

この状態でも行けるという事だったが、痛みで投げられず、標準突破している試合も出られなかった。

 

切れているのに前より投げられるはずがなくて結局手術を2年の10月にした。

 

この手術をしたら半年位は万全には戻らないとのことで、もう3年生で関東インカレには出場できない事が確定した。最後の4年生でかけるかという悔しさの中、1から体の弱いところを治していった。

思うように練習ができないイライラで三角巾で腕を固定したままスクワット150kg担いだときは、スカッとしたわ。

 

治療のために片道1時間半もかけて病院に行った。治る為ならそんなのどうでもいい。

今まで蓄積した知識や経験を怪我で終わりにはしたくない。

やりたい事ができない状態が長期間続くと鬱っぽくなって生きている気がしなくて死にたいと思う時もあった。

そんな状態を助けてくれたのが筋トレだった。

動かせるようになってきた腕を軽い負荷で追い込むのは1日の中でめちゃくちゃ楽しかった。

治ってきた実感とやりがいが良かった。

 

3年

7月

手術からだいぶ経って調子も戻ってきたところで膝を痛めた。

やり投選手ならわかると思うけどチューブでのイメージ練習で右足を回しながらCカーブを作るやつ。

右足に体重をかけて股関節から内側に入れていくのを繰り返していたら痛くなった。今までは痛くなっても何日かすれば良くなったけれど今回はそうはいかず2ヶ月たって病院にいった。

 

病院では半月板が少しだけ切れているけどスポーツ選手ならこのくらいは誰にでもあるくらいだから大丈夫だと言われました。

 

色々治療されているうちにラストシーズンの冬季練習が全然できなくなっていて、これで一発逆転なんてありえるのかと心配になっていました。それでも当時はやり投のパート長で全体を指揮しなければならない立場だったので、弱音なんて吐いていられなくて、復帰を目指しながら仲間が結果出せるように練習メニュー作りも凝った。

 

4年

5月

膝は一行に良くならなく、最後の関東インカレを審判をして終えた。

結果を出してくれて嬉しい反面、同期が怪我だらけで自分が目指していたものとは全然違った。

トップが怪我して出られないなんてダサすぎる。

手術します⑤

6月

北信越

正直めちゃくちゃプレッシャーがかかってた。

会場がスタジアムで初めてだし、ここで終わったら目標達成できないし、そもそもレベルが異常すぎるしでふあふあしながらアップをした。でも最低限のことは無意識でできるようになっていたからあとは自信も持ち続けるだけ。

アップ場で投げた感覚は申し分なかった。

 

本番

1投目は54m。これは確実に記録を残して次の投擲に繋げた良い投擲。

2投目・・・

 

 

 

59m29。2投目までの記録は全体2位。

きたよ。今までの行いが全て報われた気がした

 

3投目終了時点で8人中5位。

インターハイに行けるのは6位まで。

 

ヒヤヒヤしながら5投目終了時点で俺の順位は6

位。

自分の前の試技者2人どちらかでも俺の記録を超えたら、プレッシャーがかかる場面。

 

6投目で1つ前の試技者も超えなかった為、インターハイ出場が確定した。

気を抜かず投げた最後の1投は52mだったけれど。こんなハイレベルの中で目標記録は超えなかったもののインターハイ出場を叶えられて夢みたいだった。

59m29は全国どのブロックでも6位以内に入っていて2019年の陸上マガジンに「過去3年間のインハイ出場最低ライン」に北信越は59m29と記載されている。

今のところこの記録は過去3年通して更新されていないので、それを含め非常にハイレベルだったことが伺える。

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8月

インターハイ

54mで終わってしまった。

幾ら調整しても投げがしっくりこなくて当日もやりたいことが全くできず、燃えるものがなかった。試合中、優勝者の着替えを手伝った思い出だけが残った。

今思えば自分の目標は60m投げてインターハイに出場。インターハイで何をするのか具体的に前々から決めていなかったし、初めての経験ばかりで周りと比べたらまだまだ未熟だったと思う。全国に出場する選手は格が違いすぎた。

 

進路は就職を考えていたけれど、更に高みを目指したいという事で大学に進学すると決めた。