手術

治療の経緯を発信

手術します④

RADWIMPS会心の一撃

この曲を教えてくれた友達に感謝。

 

(曲を聴きながら読んでほしい)

サポートで北信越に行っている時に教えてくれた。1年生から今に至るまでの自分に合っていて、後半からはこの先の1番いい状況をこの曲は教えてくれた。MVを見たら本当に自分を照らし合わせているみたいだった。

曲の力は凄い。

 

俺は60m投げてインターハイ出場という目標を立てた。

出場するには地区8位以内、県6位以内、ブロック(以下北信越)6位以内の3つの大会を勝たないといけない。

記録は地区は30m程度、県大会で50m中盤、北信越で56以上投げれば行ける。この時点でのPBは51m50。

とにかく順位に入れれば記録は関係ない。でも記録を目標にしないと絶対に負ける。

 

冬場は昨年を超えるハードなトレーニングをしていった。

疲労が溜まりすぎていて、ベッドで目を閉じれば5分かからず寝れた。

最悪なことに、ある時期は毎日金縛りがあって疲労の溜まり具合が異常だった。

 

初戦の2月にある記録会では54mと大きくベストを更新し、弾みをつけて5月のインターハイ予選に向けて練習を続けた。

 

4月の一般を含む大会で50mしか投げられず予選落ちで本当に焦った。

予選会まであと一ヶ月。

その頃は技術や知識が豊富になっていたから結果が出なかった理由を動画を見て改善した。

 

5月 初戦 

県へはほぼ確定していたので調整なしで練習の流れで出場し、54mで1位。

県大会

同世代のレベルが高くてベスト以上じゃないと次には進めない。

リレーを走ってからやり投に出場して最高の状態で臨んだ。笑

練習投の感覚がよくて今日は決まったという自信しかなかった。なぜなら1年以上前からこの日の為に誰よりも練習を積み重ねて準備をしてきたから。

結果は56m4位。

1年前の悔しさを結果で返した。

こんな人は少ないでしょう。県大会最下位に近かった選手がこんなに短期間で表彰台に登るなんて。嬉しかった。自分を誇れる瞬間だった。

 

嬉しんでいたのも束の間で、北信越出場選手の持ち記録の順位を見たときは面白かった。例年の優勝記録が8位あたりだから。

俺は圏外で恐らく12番目位だったと思う。

でもそんな記録を見ても俺の闘争心が強すぎて不安はなかったよ。不安になってもやるしかないんだから。

 

メンタルは不安から来る。不安を感じなきゃ自信過剰で突き進めば乗り越えられる。予選会が始まってからマイナスなことを考えないように全て遮断して自分に暗示をかけてた。

「絶対にインターハイに出る」 

手術します③

高校2年生からは自分のしたいことが見えてきて、投擲種目のやり投をメインにした。

シーズン初めは46m投げてワンチャン北信越狙えるかと思っていましたが記録は伸びず、インターハイにつながる県大会で前半シーズン終了。

1年後も同じことをしたら、ただ遠い高校に行っただけで終わる事に危機感を感じて闘争心が今まで生きてきた中で無い程溢れ出てきた。

 

人間は危機感を覚えると恐ろしいほど能力を発揮する。

練習の倦怠感とかどうでもいい。とにかく強くなる機会が増えれば増えるほど嬉しい。

雨が降ってグラウンドがいつもと同じに使えないとか本気で気にしなかった。

ライバルに対して心の中で「雨が降って練習が短縮される事に喜んでいる中、俺はお前に近づいているし、雨の試合に動揺しない技術がつく」と思っていて雨の日はめちゃくちゃ嬉しかった。

何に対しても1番を狙った。

朝練前のゴミ拾いは、目に入ったものは絶対に拾う。

技術練習は頭の中で動きを言語化して質を高めた。

筋トレで辛いときには悔しかった過去を思い出して自分を奮い立たせた。キツイという感情よりも自分を殺す勢いで追い込む方が勝りすぎていて、悔しさをバネにするという意味に深みを感じた。

知識も技術もない状態だから当たり前を徹底することに意味があった。

 

その努力が身になって目標にしていた50mを後半シーズン初戦で投げられた。

新人戦の県大会は初めての入賞で6位だった。

4位までが北信越出場できたけど5ヶ月前の自分よりは違うものがあった。

そしてサブ種目の円盤投が惜しくも5位で北信越を逃した。サブとはいえ次のステージを目の前にして行けないのはやっぱり悔しい。

それでも砲丸投含め投擲3種目でベストが出て最高に陸上が楽しい瞬間だった。

 

仲間は着実に上位入賞して北信越出場権得る所を目の当たりにして悔しさが倍増した。

サポートとして北信越に行ったけど、思い返すと行かなかったら今の自分は無いんじゃないかと思う。

 

県で通用した後、すぐにワンランク上(北信越に出場している選手)を見たら現状じゃ駄目って普通は感じるから。

手術します②

時は中学2年。

陸上部で走幅跳やリレーをしながら、土日は小学一年生から続けているリトル・シニアの硬式野球をしていました。

中学2年の春休みに野球が急につまらなくなり辞めることになりました。自分が幾ら活躍できても周りがついて来なければ勝てないなんて面白くないと思った為です。ばりばり反抗期でした。

それからは陸上1本で取り組み、市大会で賞が獲れて喜んでいた記憶があります。

中学3年になると進路で悩みました。陸上がそこそこ強い高校に行きたい気持ちがありました。

親元を離れて高校に通っている先輩から「陸上を続けるならうちの高校に来たほうがいい」と誘われて親と相談した結果、その高校に決めて受験も合格しました。因みにその高校の陸上部は強豪です。(市大会で喜んでいるレベルじゃないと言ってやりたい)

 

高校は寮がないので一人暮らしで中学上がりの人間が家事をこなさなくてはなりません。

何もかも1人ですることに最初は苦労しました。幸い、夕食は近所のお店が自分の為に出してくれるように顧問の先生が手配してくれたので非常に助かりました。

練習の辛さは野球でしごかれていたので驚きはなかったけれど礼儀やルールが想像の100倍厳しかったし、何より周りのレベルが高くて自分が食物連鎖の最下点にいるようでした。

専門としたい種目も定まっていなかった為に8種競技から始めましたがどの種目も初見レベルで周りから観られるのが非常に恥ずかしかったです。(陸上は個人競技だけれどチームの足を引っ張っている感じがした)

そんな思いをするたびに「強くなる為に来たんだ、絶対強くなる」と噛み締めました。

ギリギリ県大会に出場して、県大会の順位は下から数えた方が早かったです。

悔しさをバネに夏の試合がない期間は必死に食らいついて秋には大分技術もついて陸上っぽくなって行きました。

 

恐らく一人暮らしと圧倒的な敗北感が重なって必死さが出てきたんじゃないかと今になって思ってきた。「何しに遠いところから来たんだ!」って言われたくはないから。

                     続

手術します①

2/6に手術します。膝の手術です。

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発端は2018年7月の練習中に投げのイメージ作りをしていて痛めた事です。

当時はすぐ治るだろうと冷やしていましたが、一行に治る気配がありませんでした。

 

2ヶ月後の9月に病院で診てもらった所、スポーツ選手なら誰にでもある症状で、大したことはないと言われました。治療として生理食塩水を注射されました。しかし、痛みが変わることがなかったのでその後数週間に渡って2、3回されました。それでも治らないので8000円近くするサポーターや徒手療法、一回5000円の衝撃波治療をしましたが。別の病院では重心が左に行っているのでサポーターを注文することになって10万円(保険適用されるので安くはなる)もしました。このサポーターは意味ないと思ったので注文をばっくれました。

そんな事で大学4年最後のシーズンを目の前にして壁にぶち当たりました。

 

陸上を突き詰めるために行った大学生活が何もなし得ることなく終わったんじゃないかと当時は思いました。

過去から今までの努力が全て無になったと感じる瞬間は死にたくなります。      

                    続